庵治石の紹介 |
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Aji-ishi |
まだ地上を大きな恐竜が闊歩していた6500万年以上前。火山活動を中心とした大きな地殻変動を伴い、地下深くでマグマが冷えて形成された花崗岩。今から約2000万年前に再び大きな地殻変動で隆起し、地表に姿を現した庵治石。悠久の時が生み出した天下の銘石。
香川県高松市の東。牟礼町・庵治町にまたがる八栗五剣山は山全体が花崗岩で形成され、ここから庵治石は掘り出されます。
日本三大花崗岩の一つに数えられ、世界でも「花崗岩のダイヤ」と呼ばれ高く評価されております。
庵治石の年間産出量は約30万トン。その中で墓石・灯篭・彫刻品として製品化される量はわずか1%~3%(約3,000トン)と言われております。
磨けば磨くほど艶を増す輝きと、この希少価値が花崗岩のダイヤと称される所以です。
花崗岩は細目(こまめ)・中目(ちゅうめ)・荒目(あらめ)に分類され、庵治石は細目と中目に分類されております。きめ細やかな模様の細目になるほど貴重品として扱われ、また水晶と同じ硬度7を示し、非常に風化に強いのも庵治石の特徴です。 200年は彫られた字が崩れたり、変色したりしません。しっかりとケアをすれば代々受け継いでも、輝きを失いません。
庵治石は「斑(ふ)」が浮くという特徴を持っております。これは、よく研磨した表面にまだら模様に黒雲母が浮かび上がり、石の表面が二重にかすり模様の様に見えるという、庵治石特有の現象で、この希少性と特質から世界一の石と称されております。
庵治石の歴史は古く、京都男山の岩清水八幡宮に伝わる古文書によると、西暦1339年(暦応2年)、八幡宮の宝殿・弊殿・拝殿の再建にあたり、庵治から5000余りの切石が京都まで送られたとあります。
平安末期から南北朝、室町時代にかけて牟礼町一帯が岩清水八幡宮の荘園であったことから、その再建に庵治石が使用されたと言われております。
庵治石製品加工の円熟を極めたのは、1814年の屋島東照宮造営の頃と言われております。当時、石工の人手不足から和泉の国より石工を呼び寄せ、造営を終えた後も生業を求めてこの地に残り、当時の技術が現在にも受け継がれております。
当時は注文を受けた石工が自ら採石地に足を運び、原石を採石加工していましたが、時代の流れとともに作業が分業化され、丁場師と呼ばれる山石屋と、仕立師と呼ばれる加工石屋とに分かれて現在に至っております。
大正より昭和初期が庵治石発展の時代と呼ばれ、硬い庵治石を見事に製品化する技を得た石工が、その技を巧みに施し刻み上げる石彫品と共に、庵治石の名が全国に響き渡りました。
年間30万トンも採掘されるのに、製品化されるのはそのわずか1~3パーセント(3,000トン)。 これは庵治石には不純物を含む層が多く、不純物の混ざっていない層が極端に薄い事、さらに使える部分にも傷や「カサネ」が多く、赤く錆びている部分も多いからです。 「カサネ」とは? 簡単に言えば、石の成分の境目の事を指します。 見分けるポイントは、主にカサネは白っぽい筋・錆を含んだ赤茶色の線・緑色の斑点が浮いているなど、比較的容易に発見できます。
カサネを含んだ石を墓石にしてしまうと、その線に沿って錆が生じたり、外的な衝撃や水分の浸入により、石が割れてしまう危険性があります。
庵治石に限らず傷がついた石を墓石にすると、傷にほこりや大気中の汚れを含んだ水分が入り込み、気温の変化で水分は膨張と収縮を繰り返し、場合によっては割れたり欠けたりしますので、傷はお墓にとって致命傷となってしまいます。